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目の変化びと

目の変化びと

◆ 私とは何か?

             私とは何か?


【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】

【私=、というはじまりかたのいかがわしさ。
「脳」などという言葉を挟むずるさ。
「知覚/認識」なんていう、知覚と認識を混ぜ合わせたごまかし。

なんといくつもの論理の飛躍、インチキを組み合わせた表現なんだろう、ひどいな、まったく…だけど、きわめて個人的に、いまのところ、もっとも腑に落ちる。

「観察者とは観察されるものである」のを理解するための、きわめて個人的な表現。

………

【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】

「私」とは、瞬間ごとの「脳の知覚/認識」である。

「世界」とは、瞬間ごとの「脳の知覚/認識」である。

「世界」は「私」である。

瞬間ごとの「脳の知覚/認識」が「私」である。

瞬間ごと、「知覚/認識された物事(現象)=私」が立ち現れている。



瞬間ごとの「脳の知覚/認識」が「私」である。
瞬間ごとに「観察されるもの」が「私」である。

「私」は、その瞬間の「脳の知覚/認識」である。
「観察者」は、その瞬間の「観察されるもの」である。

瞬間ごとの「脳の知覚/認識」のほかに「私」がいるわけではない。
瞬間ごとに「観察されるもの」のほかに「観察者」がいるわけではない。

瞬間ごとの「脳の知覚/認識」は一元的であり、そこには、「私」と「私の知覚/認識」という二元化はない。



「私」は「瞬間ごとの脳の知覚/認識」であり、「ある特定の人物/出来事」ではない。

「私=瞬間ごとの脳の知覚/認識」だけがあり、それとは別に、それを観察している「私」はいない。



以前はぼくにとっては有効であった【私=(瞬間ごとの脳の知覚/認識)】という言葉が、どうして、いまとなってはうまく機能しないのか考えてみたところ、

言葉は言葉なので、

【私=()】という言葉には、

【私≠()】という言葉がひそんでいるので、

【私=(瞬間ごとの脳の知覚/認識)】と思いこむには、あるしゅの飛躍、たぶん信仰が必要で、

言葉を伴なう信仰は、言葉を伴わない信仰(「信仰」と言う言葉を伴わないので、それは「信仰」とは呼べないのだけれども)にくらべ、長つづきしないのでしょう。



「歩く」という言葉がなければ、「歩く」と言う/書くことはできない。

「悩む」という言葉がなければ、「悩む」と言う/書くことはできない。

「A」という言葉がなければ、「A」と言う/書くことはできない。

「A」という言葉を使わなければ、「A」と言う/書くことはできない。



人が手と呼んでいる物体と、「て」という言葉とは別である。
それと同じように、人が不安と呼んでいることと、「ふあん」という言葉とは別である。

「不安」ということ自体と、「ふあん」という言葉とは別であるにもかかわらず、「ふあん」という言葉を使わずに「不安」と言う/書くことはできない。



「A」という物事自体と「A」という言葉とは別であるにもかかわらず、「A」という言葉を使わずに「A」と言うことはできない。

人は、物自体について考えることができないばかりか、事自体についても考えることはできない。
なぜなら、物事の存在自体と、物事について語ることとは、異なっているのだから。

事実についての考えと事実自体はまったく別である。

人はいつだって「何か」について考えているのだけれど、その「何か」と「何かについての考え」とはまったく別である。

「現実に起こっていること自体」と「現実に起こっていることについての考え」はまったく別である。

「物自体」を考えることはできないように「現実に起こっていること自体」を考えることはできない。



「A」という言葉と「A」自体は別である。
「A」という言葉抜きで「A」自体を全身全霊で実感しようとすれば、何というか(言葉にするなら)「恍惚感/至福」がやってくる。



「言葉」は線や点でできた図形だし、「こ・と・ば」という音である。
「こ」も「と」も「ば」もまた、線や点でできた図形だし、音である。
「図形」や「音」もまた、線や点でできた図形だし、音である。



言葉には根拠が無い。

たとえば『1+1=2』とは何か?

「1」「2」「+」「=」が何なのか、究極的には語れないのだから、それらを組み合わせた『1+1=2』が何なのか、究極的には語れない。

ところが、『1+1=2』にとらわれないと、数学は存在しない。

数学の究極的な根底は、数に根拠の無いことであり、経済の究極的な根底は、お金に根拠の無いことであり、人生の究極的な根底は、言葉に根拠の無いことである。

ああ、でも、「お金」は「数」に含まれるし、「数」は「言葉」に含まれるから、やはり「言葉」のことになるのだな。

言葉に根拠が無いので、数やお金にも根拠が無い。

「根拠」や「無い」にも、根拠は無い。

しかしな、そもそも存在に「根拠」なんてものがあるわけでなし、「言葉」だけを取りあげたってしかたがない。
ようするに、よいとかわるいとかではなく、「言葉は作り物だ」ということになるのかな。



こうやって考えていることの全部が、言葉だし文字だし音で線で点で、幻で、考えはすっかり幻で、言葉を使って生活している日常すべてが幻で、「すべて幻」というのもまた、幻/言葉で、ここはすっかり夢で、言葉を使って生活している日常すべてが夢で、「すべて夢」というのもまた、夢/言葉で、この世は見事な幻/夢になって・・・



「私の思考」は「言葉」の組み合わせでできている。「あなたの思考」も「言葉」の組み合わせでできている。
「言葉」は私の所有物でもないし、あなたの所有物でもない。
「言葉」によって組み立てられた「思考」が漂っているばかりである。
「言葉」によって組み立てられた「私」や「あなた」が漂っているばかりである。



「A」という考えが出現する瞬間と、「A」と考えている「私」が出現するのは同時である。
すなわち、「Aという考え」が「私」である。



言葉が私を作る。
言葉が私である。
言葉がなければ私はない。
私がなければ、「私のA」もない。
私がなければ、私の体/私の持ち物/私の苦悩・・・もない。

「言葉が私である」という事実を理解できれば、「言葉の無いところに私は無い」という驚くべき事実も理解できる。

「私」というのは考えからできているので、考えないと「私」が無くなってしまうから、考えない状態には「私」が大反対する。



「言葉が私である」の次は、「言葉は私ではない」という捉え方をしてみます。



意識のひろがりにおいて、いろんな出来事や物や人物が、登場しては消えてゆく。すべては通りすがりである。
「僕」もまた、意識のひろがりにおいて、通りすがりの登場人物として、現れては去ってゆく。何度も何度も現れては消えてゆく。
通りすがりでないのは、意識のひろがりだけである。



「いっさいは空(くう)である」というのは、何も難しいことを言っているわけではなく、「何か」(その「何か」は、「何」でもいい、ようするに、「いっさい」である)とかかわるとき、「何か」について言葉を使って考えるのではなく、「何か」自体に全身全霊で入ってゆけば、そこには何も無く、見事な「空(くう)」がひろがっている、というだけのことだ。
すごいことを言っているのだが、単純なことを言っているだけだ。
「いっさいは空(くう)である」というのは、たんに事実だ。



「何も考えていないときだって、空っぽでほがらかになんかなれないよ。言語化されていない心の奥深くで、何となく嫌な気分が渦巻いているんだから。」などと思考は言い出す。
ところで、「何となく嫌な気分が渦巻いている」というのは、事実として存在するのだろうか?

「何となく嫌な気分が渦巻いている」という思考は、「何となく」「嫌な」「気分」「渦巻く」といった言葉で組み立てられている。

「何となく嫌な気分が渦巻いている」という思考と、「何となく嫌な気分が渦巻いている」ということ自体とは別である。

「何となく嫌な気分が渦巻いている」ということ自体に、「何となく」「嫌な」「気分」「渦巻く」といった言葉を使わずに、全身全霊入ってみると、そこには何も無い。
そこには何も無いと知覚されたとき、「何となく嫌な気分」も存在しない。



あなたが車を運転しているときに、助手席にいる人が、「あなたが今車を運転しているというのは考えであって、事実ではない」と言ったとしよう。
あなたはびっくりして、「何を言ってるんだ? 私が今車を運転しているのは考えなんかじゃない、事実に決まってるだろ」と言い返し、助手席の人を見る。助手席の人は笑っている。

助手席の人は、いったい何を言おうとしていたのだろう?

「私は今車を運転している」というのは、文章であり、言葉の組み合わせである。

「私」「は」「今」「車」「を」「運転」「している」という言葉と、「私」自体、「は」自体、「今」自体、「車」自体、「を」自体、「運転」自体、「している」自体は、別である。

現実に起こっている状況自体は、言葉でできていない。
根本的には、「私は今車を運転している」ということ自体を、言葉で理解(知覚)することはできない。

現実に起こっている状況自体は、言葉を持たない「現象/出来事/奇跡」である。

いかなる行為においても、自分でしていると思っている行為、すなわち言語化している行為と、現実の出来事自体とは異なっている。



言語化されたものはすべて過去である。
頭に言葉が流れたとたん、それは過去である。
言語化した時点で、すべては過去になる。

言葉は過去の亡霊(妄想)である。

言葉は過去である。



「何かをしている私」はつねに虚しい。
ところが、「私がしている何か」にとらわれなければ、「私」と名づけず、「何か」と名づけなければ、たった今ここで起こっている現象は、ときめきをもたらす。

「たった今を生きる」というのは、「今さえよければいい」というのとは、まったくちがう。
「今さえよければ」と考えるとき、「今さえ」というのは、過去や未来と比較した「今さえ」である。「たった今」に過去や未来との比較はない。
また、「今さえよければ」と考えるとき、「よければ」というのは、過去や未来と比べて「よいわるい」を判断しており、過去や未来との比較がある。



存在への入口は存在である。
存在はひとつだから、どこからでも入れる。
というより、はじめから存在にいるのだから、はじめから入っている。
はじめから入っているのだから、入口なんて無いのだけれども、にもかかわらず、すべてが存在への入口である。



人は、人生を気にして生きていると思いこんではいるが、人生そのものを気にしているわけではなく、人生にまつわる「言葉/物語」を気にしているばかりだ。

そもそも、人生そのものについては、まったく知り得ないので、何を気にしていいのかまるでわからない。



自分の意見にせよ他人の意見にせよ、「A」という意見があれば、「A」でないという意見も(同時に)出てくる。
突きつめれば、あらゆる意見は「ゲーム」である。

「ゲーム」に参加するかどうかは選べるのである。
「ゲーム」に参加せず「競技場」の外に出てみたなら、そこには広大な空間がひろがっている。



「子供のころの私」というのは「昔の私」であるから、「今の私」よりも古くからある。「今の私」のほうが新しい。「子供のころの私」というのは、見方によれば、「今の私」にとっての親である。親としての「子供のころの私」から見れば、「今の私」というのは、生まれたばかりの赤ん坊である。
「今の私」というのは、いつもいつも、たった今生まれたばかりである。生まれたばかりの赤ん坊なのだから、「今の私」には、いったい自分が誰なのか、ここはどこなのか、何のために生まれてきたのか、いまはいつなのか、まったくわかりはしないのは、当然である。

いつだって、「たった今の私」がいちばん新しい。

私だけじゃなく宇宙全体が、たった今、いちばん新しい。



子供のころには、ちょっとした『つまらない物』をじっと見つめてうっとりしていることが、今よりずっと多かったでしょう? 小石でも輪ゴムでもキラキラしていたでしょう?
5才のころには、色形をじっと見つめて、うっとりしていた。

目に映る物を見ることができるだけでも、生きている甲斐がある。

物を見ているのではない、物に見られていると気づき、驚く。

生きていることが僕らをどこかに連れていってくれたりはしない。生きていることは、いまここの、生きていることの輝きを見せてくれるばかり。



宇宙の中でふと誕生した人類が、やがて滅亡するまでの、はかない『人間の世界』において見いだされたかのように思える規則や生活が、幻でないはずがない。

宇宙もまた、誕生して、消滅するのであれば、はかない『宇宙』において見いだされたかのように思える法則が、幻でないはずがない。

『いっさいは幻である』というのは、あまりにもあからさまな事実である。あきらかに見えていて、見落としようがないのに、あからさますぎて、見えないまま生きてしまうこともある。もったいないことだ。



お遍路さんというのがあるけれども、じつのところ、私たちのあるく一歩一歩が、ひとつひとつお遍路さんである。

生きていること自体が、いつだって説法である。



たったいま起こっていることは、いつもいつも一瞬の夢/幻である。
見事な見事な夢/幻である。
たった今の見事な場面が、点滅しているばかりである。

生きるとは、奇跡が起こりつづけていくことだ。

たった今ここで起こっている出来事は奇跡だ。

きれいなきれいな夢を見ているよう。

一瞬ごと、祭り。




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